『懐かしの吉島』

リタイヤ3年の休息を経て、再就職先の高等学校はクラブ活動も休止の学校閉鎖日。

写真 (4)ノンビリ日曜の朝、日経新聞を広げて遅めの朝食。
見出しを流し、「私の履歴書」から

今月は東大寺長老 森本公誠師

読むに連れ、幼い頃住んでいた吉島の国家公務員官舎住いの景色が鮮やかに甦る。
師が住まわれた場所は、正しく60年前に私たちが住んでいた場所「吉島官有無番地RE26号」(これで郵便物は届いた)の北向い。

子沢山の男やもめの父が、登庁の途中で職場の通産局向いのYMCAに私を預け、5時きっかりの退庁で私を拾い自転車の荷台に乗せて帰宅する日々。 晴れの日は何時も寄り道。 母を知らぬ末っ子への精一杯のスキンシップだったのだろう。

記事に書かれていた綿畑の縁に植えられてた南京豆や蓮根畑のハスの実を頂いたり(失敬?)
陽の高い夏場は、貯木場の丸太の間に残されたボラを捕まえたり・・・・。
南端の飛行艇揚陸スロープでズガニやハマグリ採りとか。

悪ガキの頃になると、このスロープに打ち上げられる薬莢(真鍮)を拾って小遣い稼ぎ。(この頃は、小学校子供会の活動が屑鉄拾い!(◎_◎;))

自家用車が珍しいこの時代、同じ官舎に住む広大教授が購入した外車(ヒルマン)に乗せてもらい飛行場を何度も往復。
その雑草茂る飛行場では、セスナ機やグライダー練習があり、休日はUコン模型機の競技を見たり・・・・。
グロー燃料の独特の匂いも、色々な思い出と共に鮮明に蘇ってきました。

そんな吉島の官舎は父が亡くなる中学二年生迄過ごした処。
野山ならぬ、川海畑を駈けまわった少年時代。
当時はアサリ、ハマグリが採れ、ハゼ、キスが釣れていたが、今はどうだろうか?

ps.
写真 1思い出の吉島飛行場をググると記事がありました。
懐かしい「赤い小田億号」の小田氏の名前も・・・

広島吉島飛行場の歴史 /インターネット航空雑誌「ヒコーキ雲」     制作著作:佐伯邦昭 より
戦中史 飛行場の成り立ちと陸軍飛行場としての経緯
戦後史2 1952年以降 グライダーの訓練と小型機の利用

ps.

跡地に出来たピアノメーカー東洋楽器製造(WAGNER)の工場が真夜中の火事で全焼。
北側の師が住まわれた近くの聾唖学校の校舎が赤々と燃えている!!・・・・と思いきや、1Km離れた真反対の南側の工場が燃えていた!!
走馬灯のよう。
人生二度までもピアノ炎上を体験するとは(^-^ )

 

 

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